これまで、トランスジェンダーの一般的理解として「割り当てられた性別とジェンダーアイデンティティが異なる人」という教科書的な定義を紹介してきました。しかしこれは、全てのトランスの人の状況をカバーできる完璧な説明ではありません。なぜならこの説明は、自身のジェンダーアイデンティティがまず存在し、それに合わせて性別を移行していくようなトランスジェンダーだけを想定したものだからです。
実際にはしかし、自分のジェンダーアイデンティティに合わせて性別を移行したというよりも、生き延びられる手段を模索していった結果として(たまたま)移行先の性別に適応していったという、そのようなトランスジェンダーの人々が存在しています。
例えばトランス男性のなかには、幼いころから持っている「男性」としてのアイデンテイティに合わせて男性へと移行していったというよりも、女性としては生きられないという葛藤を経て、男性としての生活を望んだり、あるいは望む望まないにかかわらず性別を男性側に移行した結果、その男性という境遇に落ち着いていく人がいます。そうした人は間違いなくトランスジェンダー(ここではトランス男性)ですが、男性としてのジェンダーアイデンティティを保持している、とは一概には言えないかもしれません。あるいは、その人がトランスであるという事実を説明する際に、ジェンダーアイデンティティという概念を使って説明しょうとしても、実感が伴っていないためあまり有効ではなさそうです。
そのため、先に紹介した「割り当てられた性別とジェンダーアイデンティティが異なる人」という一般的な定義を用いただけでは、全てのトランスジェンダーの人のありようを十分に捉えられません。
おそらくシス男性のなかにも、「自分のジェンダーアイデンティティが男性だから男性として生きている」というよりは、「自分のジェンダーアイデンティティと言われても不明だが、出生時に割り当てられた性別を何となく引き受け、それを否定することなくこれまで生きてこられた」という感覚の人がいるでしょう。それと同様に、トランスの人のなかにも「この性別なら生きていけた」という偶然性によって特定の性別を引き受けている人がいます。生存していく過程に性別移行が含まれていた、というだけのことです。なお、性別移行については第2章で扱います。