本書ではこれまで、トランス男性やトランス女性など、男女どちらかのアイデンティティを安定的に有するトランスの人を例に書いてきました。しかし、全ての人がジェンダーアイデンティティを「男性」や「女性」のどちらか一方に安定的に見いだしていくわけではありません。

例えば、自身を女性でも男性でもない性別の存在として理解する人や、いかなる性別の持ち主としても自分を理解しない人、あるいは女性と男性の二つの性別のあいだを揺れ動いていると感じる人がいます。そうした人々を総称して、「ノンバイナリー (nonbinary/non-binary)」といいます。なお日本語圏では「Xジェンダー」が似た意味で使われることがあります。

ノンバイナリーの人は、先ほどのトランスジェンダーの定義を使えば、その全員がトランスジェンダーに含まれることになります。なぜならノンバイナリーの人は、出生時に割り当てられた「女性」または「男性」と、そのまま合致するジェンダーアイデンティティを安定的に持つわけではないからです。つまり二つの要素には不一致があり、したがってトランスジェンダーの一員ということになります。

ところが、ノンバイナリー当事者の全員が、自分を「トランスジェンダー」として理解しているわけでもありません。その理由はいくつかあるのですが、ここでは二つ紹介します。

一つ目の理由は、トランスジェンダー(transgender)という言葉に含まれる「越境(trans)」の意味合いが、自分の経験にそぐわないと感じているノンバイナリーの人が少なくないからです。ノンバイナリーの人のなかにも、生活上の性別を移行したり、身体の特徴を性ホルモンや外科手術によって変化させたりする人がいますが、ノンバイナリーの人々全員が、そうした越境や変化を望んだり、経験するわけではもちろんありません。そのため、トランスジェンダーという言葉に含まれた「越境」のニュアンスが自分に縁のないものだと感じるノンバイナリーの人々もいます。

そもそも、現在の私たちが「人間の身体」や「人間の生活」を思い浮かべるとき、その「身体」や「生活」は常に「女性の身体・生活」や「男性の身体・生活」というかたちで性別と結びつけられてしまっています。そのため、はっきりと男女どちらか一方のアイデンティティを持たないノンバイナリーの人々にとっては、自分に割り当てられた性別から「移動」したり「移行」したりする宛て先(行き先)がはじめから存在しないケースも多くあります。結果として、「越境」や「移行」のニュアンスを含むトランスジェンダーという言葉に親近感を持たないノンバイナリーの人々が一定数存在しているのです。

関連する二つ目の理由として、ノンバイナリーの人々のなかには、世の中で語られているトランスジェンダーの物語(生き様の語り)に頻出する差別を経験しない人々がいるからです。結果としてそうした人は、自分がトランスであると認識させられる機会が少なく、ほかのトランスの人々のように日常的な差別を経験しない自分がトランスジェンダーに当てはまるとは考えにくい、と悩むことがあります。本来はそうした悩みを持つ必要はないのですが、それでも、ノンバイナリーの人のなかにそうした理由で「トランスジェンダー」の名乗りを避けている人がいるのは確かです。

これらの理由から、広義ではトランスジェンダーに含まれるとしても、自分のことをトランスジェンダーの一員として捉えていないノンバイナリーの人たちがいます。英語や日本語で「トランスジェンダー/ノンバイナリー」と併記することがあるのも、そのためです。