トランスジェンダーの定義

トランスジェンダーとは、いったいどのような人を指すのでしょう。本書の最初の章では、この問いに答えます。

その前に。もしかすると皆さんは、トランスジェンダーの説明として「心の性と身体の性が一致しない人」という説明を目にしたことがあるかもしれません。しかし、この説明はとても不正確です。もちろん、この説明が全くトランスジェンダーの状況を言い当てていないわけではありません。実際トランスジェンダーの人たちは、自分の性別に「違和感」を覚えるという経験、つまり何らかの「不一致」に苦しむことがあるからです。しかし、性別に違和感を持ったことがある人、といった緩やかなイメージであれば、大多数の人にも共通の経験に聞こえるかもしれません。誰だって好きで女性や男性を「選んだ」わけではないでしょうし、少なくない人が、自分の性別に文句を言いたくなったことが一度ならずあるでしょう。それでも、だからといってその人がトランスジェンダーであるとはすぐには言えません。なぜ、そうとは言えないのか。その理由については、「心の性」と「身体の性」といった言葉が含む問題と合わせて、これから説明していきます。

少し前置きが長くなってしまいました。今から、トランスジェンダーの定義を説明します。

まず一般的な定義としては、出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たちを「トランスジェンダー(transgender)」と呼びます。それとは違い、その二つが合致している人たちを「シスジェンダー(cisgender)」と呼びます。なお、以下本書では「トランスジェンダーの人たち」を指して「トランスの人たち」と略記するほか、同じように「トランスの身体」や「トランスの生活」といった言葉遣いを採用します。いずれも「トランスジェンダーの」という意味ですので、覚えておいてください。

今、紹介した定義には、多くの人にとって見慣れない単語が登場していると思います。安心してください。順を追って説明します。

まず素朴な違和感として、「性別が割り当てられている」とはどういうこと?という疑問が湧いてくるでしょう。この意味を理解するには、私たちの社会がどのようにジェンダー化されているか、つまり性別を「分ける」実践によって満ちているのかを考える必要があります。

突然ですが、子どもが誕生する場面を思い浮かべてみてください。今の私たちの社会には、その社会に新しく生まれた存在(子ども)が女性なのか男性なのか、最初からはっきりさせておこうとする文化が強力に存在しています。生まれた子どもの外性器の形を主な基準として、医師やそれに準じる職業の人々が、新しく生まれた子どもを女・男どちらかの性別にカテゴリー分けするのです。あるいは生まれる前から、そうしたカテゴリー分けは適用されているかもしれません。先ほどの定義に登場した「出生時に割り当てられた性別」とは、そのような分類の実践を常とする私たちの社会で、生まれてきた子どもに認定されるに至った性別のことです。

そうして認定された性別は、出生証明書(出生届)に記載され、日本であれば戸籍や住民票に反映されることになります。これは、とりわけトランスジェンダーの人々にとって残念なことなのですが、今の社会で自分の存在を公的に認められるにあたって、自分の性別を登録されずに済む子どもはいません。私たちの社会には、その子どもが自分の気持ちを表明するようになるはるか以前から、子どもに性別を「割り当てる」慣行が存在しているのです。なお、そこで最初に子どもたちの性別を決める際には、医療と法律という、社会的に信頼されている二つの権力が大きな役割を果たします。この二つがトランスの人たちの人生をどのように左右するのかについては、本書の第4章と第5章で詳しく述べます。

さて、改めてトランスジェンダーの定義に戻りましょう。そこには、「出生時に割り当てられた性別」以外にも、もう一つ耳慣れない言葉が出てきていました。「ジェンダーアイデンティティ」です。一言で言えば、これは自分自身が認識している自分の性別、自分がどの性別なのかについての自己理解のことを意味します。ただし、この場合の自己認識は、自分がどの性別集団に属しているのかについての帰属意識とも関わっていますから、単なる「思い」とは少し違います。例えば、女性の集団に安定的に帰属意識を持ち、「女の子たち、集まって」と指示されたときに、自分を指しているとすんなり理解できる人、あるいは女性の人たちを前に「同性」がいる、とすぐに認識しつつ生きている人。そうした人のジェンダーアイデンティティは、女性であると言えます。

とはいっても、生まれたばかりの子どもは、自分がどの性別集団の一員に属しているかを理解しておらず、また、これからどのような性別の人間として生きていくのかについて、安定的な自己イメージを持っていません。つまり、乳幼児にはジェンダーアイデンティテイがまだ存在していないことになります。しかし成長するにつれ、自分が男女どちらの性別で扱われているのかを子どもは理解するようになっていき、それに伴い、どのような性別の存在として生きていくのか、また自分自身がどのような性別の存在であるのかについて、自己認識を確かなものにしていきます。そうして形成されるアイデンティティが、ジエンダーアイデンティティです。ただし、ジェンダーアイデンティティをどのような年齢で、どのように獲得していくのか、あるいは獲得しないのかには、個人差があります。

なお、本書では「ジェンダーアイデンティティ」という言葉を一貫して使用しますが、これは英語の「gender identity」のカタカナ表記です。この言葉の訳語としては、「性自認」や「性同一性」という言葉も広く定着しており、法律や条例では「性自認」が使用されることが多いです。しかし、「自認」という表現では「本人が一時的に自称しているだけ」のニュアンスを読み取って誤解を招くとの指摘があったり、アイデンティティの安定性という側面が「性自認」では表現できなかったりするなどの理由から、「性同一性」という訳語が好まれることも増えています。

本書では、特にこだわりはありませんが、シンプルにその意味合いが伝わると考えて「ジェンダーアイデンティティ」とカタカナで表記しています。ただ、忘れないでいただきたいのは、ジェンダーアイデンティティ、性自認、性同一性という三つの言葉は全く同じ意味だということです。少しずつ与える印象が違うため、どの言葉を使うかで好みが分かれることもありますが、意味に違いはありません。もし、これらの言葉には意味の違いがあるのだと主張する人がいたら、その人は単純に間違ったことを信じていますので注意してください。

以上で、トランスジェンダーの一般的な定義についての説明は終わりです。生まれたときに「あなたは女性だよ/男性だよ」と割り当てを受けたその性別集団の一員として、自分自身を安定的に理解できなかった人たち。それが、トランスジェンダーです。

なお、こうした説明に基づけば、人口の99%以上の人はトランスジェンダーではない人たち、つまりシスジェンダーになります。対してトランスジェンダーはとても数が少なく、統計調査によって少しずつ差異はありますが、人口の0・4~0・7%くらいになります。トランスジェンダーの人のなかで実際に社会的に性別を変えて生きていく人や、戸籍上の性別を変える人となると、さらに数は少なくなります。世の中のほとんど全ての人は、生まれたときに割り当てられた性別の通りに自身のジェンダーアイデンティティを獲得していき、それを安定的に保持しています。対してトランスジェンダーの人たちは、圧倒的に社会的少数者です。まずはそのことを理解しましょう。