ここでは、架空の人物に登場してもらいましょう。トランス男性のハルカです。彼はのちに、ハルトに改名します。
ハルカは出生時に女性を割り当てられ、女性として育てられ、これまで女性として生きさせられてきた。18歳の夏、実家を離れたタイミングで、ハルカはようやく、自分の生きづらさが性別に由来することにはっきり気づく。つまり、自分には女性としてのジェンダーアイデンティティがなく、自分は女性でないということ、むしろ男性集団の一員として生きていくのが自分のあるべき将来であることに気づく。そうしてハルカはトランスジェンダーであり、男性である、という自己理解を固め、「精神的な性別移行」を終える。
そこで、次のステップだ。どうすれば社会的に男性に「なる」ことができるのだろう。
ハルカはためしに大学のLGBTQサークルに入ってみた。ところが、そこでは同性同士の恋バナが繰り広げられており、トランスジェンダーに関する情報は何ら得られなかった。そのサークルでハルカは「彼女いるの?」と聞かれ、戸惑いを覚えた。それまでも同級生などからは「彼氏いるの?」と聞かれることがあり、気分を害していたが、サークル内ではシスジェンダーの同性愛者であるかのように「配慮」されてしまい、それもまた違うのだった。
ハルカは次に、SNSでアカウントを作ることにした。プロフィールの初期設定では性別を選ぶよう求められる。それまでは、少し嫌な気分ではありつつも、何も考えないようにして「女性」を選んできたが、今回は生まれて初めて「男性」にチェックを入れる。
SNSを開くと、それまで見てきた広告とは違ったタイプの広告がスマホに流れてくるようになる。自動車工場の求人や、スポーツ雑誌の宣伝などだ。男性向けの広告には興味が持てない。とはいえ、化粧品や韓国アイドルの広告ばかり流れてくるよりは、少しだけ快適さを感じた。そこには、新しい世界が広がっているようだったから。
ハルカは女性ものの服と兄からもらったジャージ(何年も大切に使っている)しか持っていないが、ゆくゆくは男性としての社会生活を送りたいので、男性用の服を買うことにした。しかし実店舗に行く勇気は出ず、Amazon を利用した。
届いたメンズ服は、一番小さいサイズを買ったのに腰回りがだぼだぼで、男性の身体はなんて大きいのだろうとショックを受ける。本当に自分は「男性」になることなどできるのだろうかと、不安である。
落ち込みながら配達の段ボールを見ると、女性名の「ハルカ」がよそよそしく見える。この名前、好きじゃない。Amazonの配送先の宛名を「ハルト」に変更しよう。それ以降はハルト宛ての荷物が届くようになり、一人で喜びを噛み締める。ネットショッピングの名前は、変更可能な場合はすべてハルトに書き換えて利用することにした。
服を変えたら次は髪型も変えたい気分になり、美容室でショートヘアにすることに。男性モデルの写真をおそるおそる美容師に見せると、少しびっくりされた気がする。本当に刈り上げちゃって大丈夫ですか?と心配されるが、黙ってうなずく。何かを察したように美容師も詮索をやめる。
ハルトは周囲の男性たちがどんな服装や振る舞いをしているのか、よく観察してみた。自分より背の低い男性を見つけると、密かに安堵する。とはいっても、やはり自分とは全然違う存在に感じられる。男性に「なる」には、道のりが長い。
服装と髪型を変えたことで、久しぶりに会う大学の友だちにはびっくりされる。やがて、一番仲の良いトモカにはカミングアウトした。トモカも戸惑っていて、何を言ったらいいのか分からないようだ。最後に「これからは男の子として接したほうがいいのかな?」と聞かれた。急に態度を変えられるのも怖いが、気遣いは嬉しい。
お金がかかるのはつらいが、男性モノの服飾を着々と揃えていく。メンズ服を着るには胸の膨らみが邪魔になるので、Amazonで購入したバインダー(ナベシャツともいう)で胸部を締めつけて、胸が目立たないように工夫している。帽子を被ると、少年になった気持ちになれる。とはいえ、まだ同級生からはボーイッシュな女子だと思われているに違いない。
ただ、自分を知らない人からは、「声を出すまでは男性かと思った」と驚かれる機会が増えてきた。驚かれることはとても嬉しいが、声は憎い。だんだんと女子トイレでびっくりされる機会も増えてきた。トイレを我慢するか、多目的トイレに行くしかない。服装だけでなく、少しずつ男性的な歩き方や視線の動かし方も身につけたので、女子トイレのような場所では目立ってしまうようだ。
商業ビルの奥まったトイレで、初めて男性用のトイレに入ってみた。誰もいなくてほっとする。小便器があって、ゴミ箱がない個室空間は異質だったなと、足早にトイレを去った。大学では知り合いがいるので男子トイレにはまだ入ることができない。そのため授業中にお腹が痛そうなふりをして抜けだして、多目的トイレを使っている。
ハルトは居酒屋でバイトを始めた。女性のアルバイトはホールを希望する人が多く、実際にホールスタッフは女性しかいないが、ハルトはキッチンに配属してもらえることになった。髪が短く、メンズの服しか着なくなっているので、店長も状況を察してくれているのかもしれない。キッチンは男性ばかりで、仕事に熱中していると男性たちの空間に溶け込めている気がする。女性扱いされない!嬉しい!!
実家に帰ると、すっかり男のようになったハルトに家族は驚いている。祖父母はいとこのお姉ちゃんが出産したことに触れ、これみよがしに孫の話をする。よくこんな家で女性として18年も過ごしたものだと思う。この家に生まれていなければ、もっと早く自分がトランスジェンダーだと気づけたのに。
やむを得ず家族にカミングアウトをした。親には泣かれたが、「何となくソッチ系かなとは思ってたよ」と言われる。差別的なニュアンスも感じて素直に喜ぶことはできないが、性別移行を進めていく覚悟は伝わったようだ。
親の扶養には入ったままだが、保険証の性別欄を裏面記載にしてもらうことにした。表面に堂々と「女」と表記されているよりは、いくぶんマシだろう。